2011年7月16日土曜日

再開にあたって


3月14日の投稿を最後に、約4ヶ月にわたってこのブログの更新が滞ってしまいました。日本が想定外の巨大地震と大津波、そして原子力災害にみまわれた後、私の身辺にも想定外の出来事が起こり、ブログの更新ができなくなっておりました。

更新のないまま4ヶ月が経過したため、このブログは読者から見放され、ペンペン草が生え閑古鳥が鳴いていると思っておりました。ところが、ブログの統計を調べてみると、この4ヶ月の間も平均して1日あたり約1500ページビューのアクセスがあったことがわかりました。このブログを見放さずにたびたび訪れてくださっていた方々に感謝いたします。

予告なく長期にわたってブログの更新が止まってしまったことへのお詫びと釈明をかねて、この4ヶ月間に私の身の回りにおきた出来事を差し障りのない範囲で書いてみようと思います。長くなるので初めに短くまとめると、(1)仕事上の緊急呼集、(2)入院、(3)PCの故障の3つが次々におきたため、更新できない状態が長引いてしまった、という次第です。

事の起こりは3月14日の夜、というよりは15日の未明でした。勤め先から緊急呼び出しの電話があり、夜明け前に迎えの車でオフィスに。就業規則に「緊急呼び出し」の規定があり、呼び出しがかかった場合には原則として拒否できないということは頭の片隅に入っていたのですが、まさか私が呼び出しの対象になるとは思ってもいませんでした。それ以降、目の回るような忙しさで、帰宅はおろか入浴や着替えもままならない日が続きました。

3月17日には、福岡へ出張するために羽田空港に。空港はいつもとは違う異様な雰囲気でした。見渡す限り、幼い子の手を引いたり抱いたりした若い母親の数が非常に多い、というよりはほとんどがそのような人たちでした。空港の職員に尋ねたところ、彼らも同じ印象を持っていて、それらの乗客のほとんどは放射能汚染を避けるために自分や夫の実家のある地方へ疎開しようとしているらしい、との返事でした。

東京に戻ってからも忙しい日々が続き疲労がピークに達したころ、私の身に事件が起きてしまいました。会議が終わって自席に戻るために階段を降りているときでした。余震を警戒してエレベーターは使用禁止、普段から暗い階段の照明は節電のためにいっそう暗くなっていました。はっきりとは憶えていないのですが、もう少しで踊り場に足が届くというときに、何かズシリと重い塊がお腹の底から体の芯を駆け上って脳にぶつかったような感覚があって、その後は何が何だかわからないまま踊り場に倒れ込んでしまいました。ほとんど痛みは感じなかったのですが、体を動かすとさらに事態が悪くなりそうな予感があり、その場に倒れたままじっとしているしかありませんでした。階段の上り下りには注意していたつもりなのですが。

病院で全身麻酔で手術を受けることに。手術台にのせられると、両手には血圧や心拍を測定するケーブルが取り付けられ、両足は広げた状態で足首をベルトのようなもので固定されました。鼻と口は呼吸と麻酔用のマスクで覆われ、顔の周りは厚いカーテンのようなもので遮られて、執刀医や麻酔医、男女の看護師の姿を見ることはできなくなり、人の声や金属製の手術器具のたてる音、それに私の鼓動に合わせて測定器が出す信号音だけが聞こえる状態に。

「足を上げますよ」という女性看護師の声がして手術台の足を固定した部分がせり上がり始めるとほぼ同時に、耳元で麻酔医が「じゃぁガスを入れますね。大丈夫ですよ~」。その声を聞き終わるか終わらないうちに完全に意識を失いました。事前の麻酔医の説明で、麻酔には笑気ガス(亜酸化窒素ガス)を使うが、ガスを吸って1秒以上意識を保てる人はほとんどいない、と聞かされていたとおりでした。

1時間弱で手術は終わったそうですが、私が意識を取り戻したのは病室に運ばれる途中。周りの看護師からしきりに名前を呼ばれて目を覚ました私は、問われるままに「痛みはない」とか「気分は悪くない」などと受け答えをしたつもりだったのですが、看護師は「わからない」と首を振るばかり。後で聞くと、麻酔から完全には覚めきっていない私のろれつが回っていなかったので、何を言っているのかさっぱりわからなかったとのこと。病室のベッドに戻されてしばらくすると急にひどい吐き気に襲われました。これも、全身麻酔が解けた後に吐き気をうったえる人が何パーセントかいる、との麻酔医の説明のとおりでした。

手術後、なかなか出血が収まらず細菌感染による発熱も始まったため、腕には抗生剤や栄養剤の点滴、鼻やそのほかの場所にも管が差し込まれ、寝返りもままならない状態で何日も過ごさざるを得ませんでした。

手術後の2晩、続けて奇妙な夢を見ました。それまでに私が見た夢とはパターンがまったく違っていたので印象に残っています。舞台はすべて欧米のようでした。どこかの研究所の少し暗い室内で同僚たちとディスプレーの画面を見ながら何かを議論していたり(同僚たちが地味なセーターやカーディガンのようなものを着ていてイギリスの雰囲気)、左側に石造りの古い建物が建ち並び、右側には小川と暗い森が続く石畳の道を、猛スピードで自転車をこいで先を行く誰かの乗った自転車を追いかけているが、路面が濡れていて滑りやすいのに加えて道が直角に曲がっていたりしてなかなか追いつけなかったり、アメリカ中西部風の小さな町のメインストリート(といっても未舗装で両側には開拓時代のような木造の家並み)で、左側の路肩に穴が掘られていて、その中にレトロな服装の女性が仰向けに横たわっており、穴の周りに集まった人たちが口々に「コンクリート・メアリー」とつぶやいていたり(その女性はこれから埋められるところなのか、掘り出されたところなのかは判然としません)、などなど。

手が少し自由に動かせるようになってから気づいたのですが、首の真後ろで髪の生え際から1cmほど下がったところに以前はなかった丸い盛り上がりがあることに気づきました。手術中にマイクロチップでも埋め込まれた(笑)かと思いましたが、その後数日で消えました。背中ニキビだったようです。

ようやく退院にこぎ着けた日、病院の玄関には勤め先が手配してくれた黒塗りの大型乗用車が横付け。企業のトップや暴力団の幹部が乗るような車で気恥ずかしさを覚えましたが、いつも自宅とオフィスの間の送迎をしてくれている運転手さんだったので遠慮なく乗ることに。最後の診察や退院の事務手続きが手間取って予定よりも2時間以上遅くなったのですが、その間、この状態で病院の入り口に駐まっていたとしたら、ほかの来院者に迷惑をかけたのではないかと気がかりでした。が、そこはプロの運転手。私が玄関に向かったら携帯電話で知らせてくれるように病院のスタッフに頼んでおいて、車はほかの場所に移動していたとのこと。

乗る機会のめったにない高級車で、ガラスも分厚くドアが閉まると外の音が全くといっていいほど聞こえなくなりました。電話が2台あるなど内部の装備も充実していて、何に使うのかわからない電子機器もありました。車内にはプラズマクラスターの空気清浄機が取り付けられていて、久しぶりにさわやかな空気を思い切り吸うことができました。新車の香りがしたので聞いてみたのですが、それほど新しい車ではないとのこと。プラズマクラスターの効果なのでしょうか。一方の私は、入院中まったく入浴できず、ぬれタオルで体をぬぐうだけでしたので、そうとう臭ったのではないかと思います。

家についてまずしたのはシャワーを浴びること。そして誰にも邪魔されずに好きなだけ眠ることでした。

その後、親族に勧められて長野県内にある叔父の別荘で静養することに。最初の数日は叔母がいて世話をしてくれたのですが、その後は私一人きりになりました。森の中の一軒家です。2階の窓からは少し離れたところにある2軒の家が見えるのですが、夜も明かりが灯らず人がいる気配がありません。車が駐まっていて人が滞在しているらしい家までは数百メートル。夜は真っ暗で、周囲の森の中からいろいろな物音が聞こえてきて不気味でした。2階の寝室で寝ていたのですが、ときおり庭や屋根の上を何か(小動物?)が動き回っているような音がして緊張しました。警備会社の非常通報ボタンがこれほど頼もしく思えたことはありません。夜間は閉め切ったカーテンを開ける勇気がありませんでした。何かが窓の外にいてこちらを見ているのではないかという恐怖感があったからです。20年ほど前には同じ別荘地内で若い女性が殺されるという事件があったそうです。親戚の別荘に一人で滞在していた女子大生が、買い物の帰りに地元の若者に後をつけられ襲われたのだそうです。

そういう怖さはあったものの、早朝の散歩で味わうすがすがしい空気のおいしさや、カラ松林越しのすばらしい眺望が刻々と色合いを変化させていく様子に、心身ともに癒やされ、浩然の気を養うことができました。

もう一つ、このブログの更新再開が遅れた理由があります。それは、退院後、自宅のPCが2台とも相次いで故障したことです。メインのデスクトップ・マシンは“ブルースクリーン”が頻発、サブとして使っていたノートブックPC(ThinkPad)は起動時に“ファン・エラー”を繰り返すようになり、とうとう全く起動できなくなりました。最後の手段として、いずれ家庭内LANに接続してファイル・サーバーにしようと温存していたウィンドウズMe搭載のフルタワー・マシンを引っ張り出してきたのですが、ネットにつなげることができずに投了。

壊れた2台のPCは、ともにウィンドウズXPを搭載したIBM製のマシンです。デスクトップの方は、以前から時折“ブルースクリーン”が起きるようになっていたので、ハードディスクが寿命を迎えて読み書きのエラーレートが上がったのが原因ではないかと思っています。ノートブックの方は、ネットで調べると同じような故障を経験しているユーザーが結構いるようです。昨年後半あたりから冷却ファンの音が少しずつ大きくなってきていたので、それが予兆だったのでしょう。IBMのPC事業を継承したレノボにThinkPadの件で電話すると、すでに修理対応の期間が終わっており、交換部品もないので修理には応じられないとのこと。25万円近い製品が、新品で購入してから6年程度で修理できなくなるというのは納得できないものがあります。

ノートブックPCの方はいずれ中古部品のファンを調達して自分で修理することにして、デスクトップの方はこの際思い切って新しいものを買うことにしました。以前から、次に買うときはDellにしようと決めていたので、迷わずDellのミドルタワー型の機種を選択。CPUはインテルの第2世代コア i7(4コア)。メモリーだけは「金に糸目をつけずに」積めるだけ積むのが私の主義なので16GB。OSはウィンドウズ 7 の64ビット版にしました。

以前からデータのバックアップは定期的に外付けハードディスクとUSBメモリーにとっていたので、マシンが2台とも壊れてもデータロスはほとんどありませんでした。新マシンは、最新CPUやGPUのパワーでウェブの閲覧も快適です。今までは回線スピードのせいだと思っていた重たいページの表示もほとんど一瞬です。回線容量がボトルネックだったのではなく、マシンの性能が大きく影響していたようです。

問題は、ウィンドウズ 7 の使い勝手、つまりユーザー・インターフェースがXPとはかなり違っており、慣れるのにまだ時間がかかりそうなことです。私はマウスではなくショートカット・キーを多用するのですが、たとえばフォーカスするウィンドウを切り替えるときに使う「Alt+Tab」もXPのときとは動きが異なっており戸惑います。ウィンドウズ「Vista」をとばして、いきなり「7」に乗り換えたためかもしれませんが、何かと評判の悪かった「Vista」に手を出さなかったのは今でも正解だったと思っています。

数日かけて長々と書いてしまいました。健康状態にもまだ一抹の不安があり、以前ほどの頻度でブログの更新ができるかわかりませんが、少しずつ従前のペースを取り戻したいと思っています。どうか、今後ともこのブログをよろしくお願いいたします。