2011年1月15日土曜日

南海地震の前兆


高知県在住で「池谷・関彗星」を含む 6つの新彗星と約 1500の小惑星を発見し、現在は東亜天文学会の会長をつとめるアマチュア天文家の関勉(せき・つとむ)氏の回想録が、『毎日新聞』の高知版に連載されています。その中に、1946年 12月 21日に起きた昭和南海地震(M8.0)の経験に触れた部分があります:

南海地震の前兆と思われる現象について以下に抜粋します:

▼戦争中から海底隆起が顕著だった
中学生になると流石(さすが)に大戦下ということで遠足に行くことも少なくなり、服装も国防色の正服となり、戦闘帽をかぶり、軍隊式の“行軍”で歩いて桂浜まで行きました。しかし、このころ迫り来る大地震の前兆とも言える海底の隆起が、顕著に浦戸湾付近に見られるようになっていたのでした。

▼あっ! 海がない!
(1946年の暮れ頃、敗戦後の食糧不足を補うために夜釣りに加わったときのこと)
この夜、漁が少ない上に、それまで経験したことがないような、実に奇怪な現象が起こったのです。何だか川が浅く、この日に限って魚がいないのです。ついに夜を徹して浦戸湾に近い河口にまで達したのですが、先頭を歩いていた父が突然、前方を指さし、「見ろ、あれは何だ!」と叫んだのです。
「あっ! 海がない!」。私も叫びました。暗い浦戸湾の上には、星明かりが暗黒の入り江の姿を幽(かす)かに映し出していました。そのころは、埋め立てられた現在の浦戸湾と違い、入り江がとても広かったのです。干潮の時間とはいえ、海水は完全に引いて、黒々とした海底の土が高く盛り上がって、実に奇怪な景観を展開しているのです。「これが浦戸湾だろうか?」と、自分の目を疑いました。

▼1年前に南海地震を予知していた先生
この田村先生で、特筆すべきことがあります。それは昭和南海地震を予言した、ただ一人の先生でした。安政元(1854)年の大震災から、そろそろ100年がやって来ようとするとき、多くの人は地震のことを知らなかったのです。マスコミもニュースや紙面で取り上げません。それも戦時中という特殊な状況の下で、それどころではなかった、ということが実情だったかもしれません。
(中略)
しかし、自然科学も得意だった田村先生は、国語の授業の中でそのことに触れました。室戸岬や浦戸湾の海底が年々隆起しつつあることを説明し、それは最早(もはや)限界に達し、いつ大地震が襲ってきても不思議ではないことを述べ、注意を促しました。私たちは、その事実を初めて知って、大いなる戦慄(せんりつ)を覚えました。
それから正確に1年後、本当に大地震がやってきて、田村先生の予言は見事に的中したのでした。

以上の体験談からすると、南海地震の少なくとも数年前には誰が見てもすぐにわかるほどの隆起が高知県の海岸で起きていたようです。高知県の海沿いに住んでいて地震予知に興味のある方は、定期的に写真を撮ったり、規準を決めて海岸の岬や岩の高さを記録したりすると、アマチュアであっても次の南海地震の襲来を事前に察知できるかも知れません。

以下は地震前兆とは言えませんが、興味深いので抜き書きしておきます:

▼地震時、異様に輝く金星
1946年12月の南海大地震の時、明けの空に輝いていた特別に明るい星は、金星であった事を前に述べましたが、実は私の記憶では、明けの明星より更に明るく異様に大きかった印象があります。しかも薄雲の中にボーッとにじんで、まるで彗星(すいせい)のように不気味に輝いていたのです。私は正直に言って、それは災厄を予言する名も知れぬホウキ星の出現だった、と思っていたのです。
(中略、パソコン上のプラネタリウムで 1946年 12月 21日当時の夜空を再現した結果 ・・・)
意外や意外、明けの空に、金星と、太陽系で一番大きな木星がランデブーしたのです。
これで謎が解けました。金星一つでは到底説明できなかった巨光の犯人は、珍しい二つの惑星が接近して異様な光の情景をかもし出していたのです。大昔、イエス・キリストが誕生した夜、東の空が急に明るくなったという説がありますが、その頃多くの惑星たちがランデブーして、絢爛と夜明け前の空を彩っていたのかも知れません。

昭和の南海地震については今さら言うまでもありませんが、『理科年表』(丸善株式会社)には以下のような記述があります:
被害は中部以西の各地にわたり、死 1330、家屋全壊 11591、半壊 23487、流失 2598。津波が静岡県より九州にいたる海岸に来襲し、高知・三重・徳島沿岸で 4~6m に達した。(中略) 高知付近で田園 15km² が海面下に没した。

なお、南海地震の前兆については 2009年 12月 5日付「孕(はらみ)のジャン」も是非お読みください。


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