2010年2月15日月曜日

朝青龍の引退 (その 1)

朝青龍の「強制」引退については、朝青龍本人と降格された親方の記者会見があっただけで、日本相撲協会からはいまだに正式な説明がありません。自らの興行を「国技」と自画自賛し、法人格を認められている団体なのですから、きちんと公明正大に説明すべきだと思うのですが、閉鎖的というか頑迷固陋というべきか。一法人である相撲協会の閉鎖性が非難されるだけならともかく、海外の報道では日本人や日本社会の閉鎖性、排他性にまで矛先が向けられています。

以下は、アメリカの経済誌『Forbes』に掲載された記事です:
  • Sumo's Bad Boy (“Bad Boy” には、行儀の悪い少年、不良少年、時代の反逆児 などの意味があります)
記事の筆者は、朝青龍の引退は日本人や日本社会の閉鎖性の象徴と見ているようです。以下に、記事の一部を意訳してみました:
相撲と同様に日本という国も閉鎖的で、機会を求める外国人がもたらす刺激に対して門戸を開放するよりも、人口減少と経済的沈滞を辛抱する方を選んでいる。

日本人は、国の財政が窮迫し、人材とアイデアが枯渇しつつあることに知らん顔を決め込んでいる。国の(予算に占める)負債はすでに GDP の 2倍近くに達している。格付け会社の S&P は 1月 26日、アジア最大の経済大国である日本がその赤字を制御できないのであれば、日本の公的債務(国債)の格付けを引き下げる可能性があると発表した。2030年までに現在よりも人口が 1千万人減り、団塊の世代が定年を迎えることによって税金を納める働き手が毎年 50万人ずつ減っていく。それにもかかわらず、徐々に進行している経済活力の低下をくい止める方法を模索している立法府の議員たちは、わかりきった解決方法 ― 移民を受け入れること ― を提案することを拒んでいる。相撲界のお高くとまった幹部たちと同様に、議員たちは多様性と無関係であることを選択しているのである。

もし日本が外国人に対して門戸を開放する方針に転じるならば、イギリスやフランスと同じように、多くの(外国人の)見慣れない行動様式や社会的なトラブルに慣れなければならないだろう。それらの不都合を埋め合わせるだけのメリットがある。日本は、アメリカのような人種や文化のるつぼにはならないだろう。朝青龍や他の外国人力士によって相撲が発展したことに示されるように、健全な多様性のために、多少の異質なふるまいに目をつぶることには価値がある。

(続く)