2009年2月2日月曜日

正嘉元年の大地震と青い炎

鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』(注)には、非常に多くの地震が記録されています。その中で、とくに印象深いのが正嘉元年8月23日(1257年10月9日)におきた大地震です。『理科年表』所載の被害地震年代表によれば、マグニチュードは 7.0~7.5、震央は相模湾内部、江ノ島の南約 10km です。この推定が正しいとすると、鎌倉の目と鼻の先で大地震が発生していたことになります。

当日の『吾妻鏡』の記載は次のとおりです:
8月23日 乙巳 晴
戌の刻大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きこと無し。山岳頽崩し、人屋顛倒す。築地皆悉く破損し、所々の地裂け水湧き出る。中下馬橋の辺地裂け破れ、その中より火炎燃え出る。色青しと。今日大慈寺供養御布施の事沙汰を致すべきの由、御教書を御家人等に下さるるなり。
現代語に直すと次のようになります:
午後8時頃(午後7時から9時までの間)、大地震があった。音をともなっていた。神社仏閣で無事なものは一つもなかった。山は崩れ、人びとの住まいは転倒した。土塀もすべて壊れ、所々で地面が裂け、水がわき出した。中下馬橋のあたりでは、地割れから炎が燃え上がった。色は青かったという。(以下略)
「地裂け水湧き出る」とあるのは、地盤の液状化現象や噴砂現象が起きたものと考えられます。

「地裂け破れ、その中より火炎燃え出る」とあるのは何でしょうか。現代であれば、都市ガスの配管が破損してガスが噴き出し、それに何らかの火が引火したと考えるところでしょう。もちろん、鎌倉時代にそのようなものはありません。地震の揺れによって可燃性のガスが地下から上昇して地表に噴き出し、それに何かの火が移ったと考えるのが妥当でしょう。液状化現象の気体版といってよいと思います。地震が発生したのは夜ですから、淡い炎の色もよく見えたと思います。

ガスの正体はなんでしょうか。ここでヒントとなるのは「中下馬橋」という地名です。現在、鎌倉のメイン・ストリート若宮大路を由比ヶ浜から鶴岡八幡宮に向かって進むと、横須賀線との立体交差の手前に「下馬」という交差点があります。この近くでは、滑川が蛇行して若宮大路に近づくような地形になっています。この近辺にあった橋が「中下馬橋」ではないでしょうか。若宮大路は 1182年(地震の75年前)に源頼朝によって造られたとされています。その築造工事の前は、「下馬」のあたりは、滑川の河原か氾濫原で、湿地あるいは沼沢地であったと想像されます。そこには、川によって運ばれてきた植物などの有機物が堆積していたのではないでしょうか。それを埋め立てて若宮大路などの都市基盤を造ったとしたら、地下で細菌などによって有機物が分解され、沼気(メタンガスが主成分)が溜まっていたと考えることができます。この気体が地震をきっかけに噴き出し、炎となった可能性が高いと思います。

(注) あづまかがみ  東鑑とも書く。鎌倉幕府が編纂した幕府の歴史書。巻数未詳。後世52巻と訛伝。編年体で、各将軍ごとにまとめられる。13世紀末~14世紀初頭の編纂。ただし完成したかどうか不明。1180年(治承4)以仁王・源頼政の挙兵に起筆し、1266年(文永3)6代将軍宗尊親王送還までを扱う。(平凡社『世界大百科事典』より抜粋)

上記『吾妻鏡』の本文は、『東鑑目録』所載の読み下し文を参照させていただきました。